장재형목사 설립한 진젠도르프 박사과정 2023 콜로키움 성공적 마무리

장재형목사가 설립한 미국 올리벳대학교의 샌프란시스코 캠퍼스에서 열린 ‘진젠도르프 박사과정'(Zinzendorf School for Doctoral Studies, ZSDS) 2023년 콜로키움이 10월 20일(현지시간 기준) 성공적으로 마무리되었다. 콜로키움은 10월 9일부터 20일까지 2주 동안 진행되었고, 50명 이상의 박사과정 학생들이 전 세계에서 참여했다. 이 기간 동안 참석자들은 학문적인 지식을 증진시키고, 수준 높은 교수진 및 학생들과의 유의미한 상호 작용 기회를 가졌다. 콜로키움에서는 목회학 박사과정 … Read more

장재형 목사가 제시하는 영적 예배와 공동체적 동역

장재형(올리벳대학교 설립) 목사는 예배를 단순히 정해진 시간에 행하는 종교적 의례가 아니라, 그리스도인이 살아계신 하나님 앞에서 자신의 삶을 온전히 재조정하는 **‘영적 예배’**로 정의하며 이를 끊임없이 강조해 왔습니다. 그가 말하는 예배의 본질은 화려한 기술이나 인위적인 연출에 있지 않습니다. 대신 성령의 현존과 말씀의 권위가 개인의 내면과 공동체의 문화를 근본적으로 변화시키는 사건이어야 합니다. 따라서 예배의 핵심 질문은 “무엇을 행하는가”가 … Read more

장재형목사, 예수님의 겟세마네 기도

장재형 목사의 메시지는 마가복음 14장 32-42절의 겟세마네 장면을 사순절의 관점에서 다시 읽으며, ‘아바 아버지’라는 신뢰의 호칭, 깨어 기도하라는 제자도의 요청, 십자가로 향한 고독한 순종을 입체적으로 조명한다. 사순절은 늘 우리를 신앙의 더 깊은 층위로 이끈다. 장재형 목사는 겟세마네를 예수님의 마지막 밤이 아니라, 믿음과 순종이 어떤 압력 속에서 실제로 형성되는 장소로 바라본다. 그곳은 감정이 사라진 결의가 아니라, … Read more

장재형목사, 고난 속에서 드러나는 영광과 성령의 중보

장재형(올리벳대학교 설립)목사는 로마서 8장 18–27절을 관통하는 메시지를 통해, 그리스도인이 겪는 고난이 무의미한 소모가 아니라 장차 드러날 영광으로 나아가게 하는 길이라는 사실을 설득력 있게 강조한다. 그는 소망으로 얻는 구원이 단순한 낙관주의나 자기암시가 아니라, 눈앞에 보이지 않더라도 하나님 나라의 확실한 약속에 뿌리내린 미래지향적 확신이라고 풀이한다. 그래서 신자는 고난을 모르는 사람이 아니라, 고난을 새로운 좌표 속에서 읽어내는 사람이다. 현실은 아프지만 결말은 선하다. 이 신뢰가 무너지지 않을 때 … Read more

Le pasteur David Jang : la gloire révélée au cœur de la souffrance et l’intercession de l’Esprit

Le pasteur David Jang (fondateur de l’Université Olivet) montre, à partir de Romains 8.18–27, que la souffrance du chrétien n’est pas une usure inutile : elle devient la route qui conduit vers la gloire à venir. Le salut reçu « en espérance » n’est ni optimisme de surface ni autosuggestion, mais une certitude orientée vers l’avenir, enracinée dans … Read more

张大卫牧师:苦难中显明的荣耀与圣灵的代求

张大卫(奥利弗特大学创办者)牧师以《罗马书》8章18–27节为经纬,坚实地指出:基督徒所经历的苦难绝非徒然消耗,而是通往将来必然显明之荣耀的路径。他阐明,“因盼望得救”并不是轻率的乐观或自我催眠,而是即使肉眼未见,也深扎于上帝国度确切应许中的面向未来的确据。于是,信徒并非“不懂苦难”的人,而是能在新的坐标里解读苦难的人。现实会疼痛,但结局向善。当这份信靠不崩解,忍耐便不再是拖延术,而是信心的筋骨。 他首先呼吁视野的转向。相同的难处,因注视对象不同,会生成全然不同的叙事。世间的劳苦常被感为无目的的轮回,但张大卫牧师把信徒的苦难读作“被应许地平线赋义的时间”。此处,盼望不是操控结果的咒语,而是参与上帝已然开场之救恩戏剧的姿态;盼望是一种对未曾经验之事的先行品尝,这灵性触觉生长于末世论的确信。因此,他称信徒的忍耐为“奖赏已定的等候”,且分明指出:这奖赏并非交易的回报,而是上帝亲自赐下的同在之荣耀。由是,苦难与荣耀并非彼此抵消,反而互为诠释——不是苦难遮蔽荣耀,而是荣耀揭示苦难的意义。 《罗马书》8章的独特之处在于:救赎并不局限于个人层面。保罗说“受造之物一同叹息”。张大卫(韩语:장다윗)牧师将此叹息解读为朝向宇宙性复原的产痛;叹息不是失败的呻吟,而是临产的信号。正如人的堕落震荡了世界秩序,上帝的复和也不止于人的得救,而迈向万有的再创造。这样的视角不把信仰缩减为私人的慰藉;信仰是怀抱全受造界的公共想象,救赎不是“我一人的天路”,而是“我们的新天新地”的群体性、宇宙性事件。因此,基督徒伦理被外展:不再旁观生态破坏,而以日常决定回应受造界的呻吟——减少浪费、选择看顾、修复共生生态——这些实践成了末世盼望的前奏。倾听受造之物叹息的灵性,正是在上帝邀万有入自由的心意上同心。 与此同时,保罗也说:信徒自己“心里叹息”。领受了“圣灵初熟的果子”的人仍在叹息,这一悖论如实诊断了我们立于“已然—未然”间隙的处境。张大卫牧师劝勉:莫要逃离这张力,而应尊重它。抢先模拟成全喜乐的灵性是浅薄的。越深尝过圣灵的安慰,就越敏锐地感到尚未得赎的身体与世界的错位。然而,这叹息不是绝望,而是有方向的哀伤。“等候身体得赎”不只关乎个体身心的复原,更指向作为基督身体之教会的成熟,以及面向世界之平安与和好(Shalom)的共同期盼。所以,等候不是袖手,而是参与:祷告、服事、见证、连带,成为等候的语言。 在这里,他高举福音的核心之一——“圣灵的代求”。我们屡次连“如何祷告”都不知,其因非意志软弱,乃视域短浅。然而圣灵以“说不出来的叹息”为我们代求。此宣告将祷告从华丽辞采与逻辑竞赛中解放出来:祷告的能力不在文句,而在内住圣灵的信实。圣灵矫正我们的欲望,遮盖我们的无知,并把我们的现实重排进上帝的旨意。因此,代求不是高阶属灵技艺,而是顺着圣灵节律去呼吸的生命本身。我们可以以沉默祷告,也可用眼泪敬拜。圣灵代求所保证的,不是“精准请愿”,而是“与上帝精准连结”。连结既复原,生命议程随之重整:我们未必得着自己所想要的一切,却会更清楚地爱上帝所要的。 这类祷告实践须在日常中受检验。于竞争成常态的校园里,相信圣灵代求的人不为比较而摇动:他人的成就不是我的失败,失败也不是我的身份。盼望之人不以结果界定自我;他把任务当敬拜,把关系当呼召。于是,行程虽紧,心却不僵;时间管理不再是控制的强迫,而是爱的秩序。即使研究、作业、社团、打工把生活切割成碎片,圣灵仍使我们的欲望与恐惧与上帝旨意对齐并加以整序。当这种整序发生,拖延的优柔消散,匆促的焦躁止息。平安不是情绪的温度,而是关系的秩序。 张大卫牧师又补上一道关键洞见:在苦难现场,信徒并非更软弱,而是更真实。苦难揭示我们的无能,同时也使我们更深地尝到上帝的美善。信心不是逃避现实,而是直面现实的勇气;盼望不是彩虹幻影,而是盟约记忆。因此,他不是以一句“不要灰心”的口号作结,而是直面灰心的成因:未可知的未来、反复的失败、关系的裂痕、健康与经济的压力——这些都确凿无疑。然而其上尚有更坚固的真实:基督的爱。当保罗宣告“没有什么能使我们与这爱隔绝”时,他并未夸张情绪;十字架与复活已证明,这爱不是抽象情感,而是历史事件。事件的实在成为我们今日的确据。确据不是不切实际的自信,而是福音的现实感。 能同时听见受造界叹息与圣灵叹息之耳,也会对社会之痛更为敏感:在以竞争为结构的社会里,落伍者的呻吟;在战争与灾难中倾泻的无辜泪水;在歧视与仇恨下被压抑的声音——所有这些叹息之上,叠加着圣灵的叹息。听见叠加之声的信徒,不再是旁观者,而是代祷者。代祷不是远距问安的道德姿势,而是近身与伤口共担的连带。它不许诺短期绩效,却实践恒久忍耐、从不遗忘的爱。当教会把世界的痛楚纳入自己的日程,当校园里的基督徒优先照料软弱的肢体,小小的复原便开始。这些微小复原,是新天新地的预兆。上帝并不只呼召我们做宏大叙事的主角;多半时候,他呼召我们在小位置与圣灵同工。小位置的忠心,连接着大故事。 在“已然—未然”的边界,我们屡屡摇摆。即便尝过圣灵的“初熟果子”,有时祷告仍像堵住,话语似乎遥远,群体也变得生疏。张大卫牧师说,恰在此时,更当信靠圣灵的代求。信心不随情绪潮汐而迁移;圣灵的工作不受我们的情感节律所限。当我们本应发出的叹息发不出来,圣灵就在我们里面为我们酝酿叹息,我们的缺口遂成恩典管道。于是,失败的幽谷不被抹去,但它已不再是孤立之地;它成为学习上帝自我谦卑的所在,成为彼此学会为对方而哭之处,成为操练爱的肌肉之场。苦难不能摧毁我们;它不会使爱变薄,反使爱加厚。 将这些线索收束,张大卫牧师把福音落回信徒的日常。他不用庞大的标语,而以精密的习惯来表述信仰:以与圣灵同息的祷告开启并收束一天;以节制的生活不忘受造界的叹息;优先照顾群体中软弱的肢体;以敬虔使过程重于结果;在失败里萃取学习的谦卑;不止于言传福音,更以生命翻译福音的真实。这些习惯因不夸张而更持久。与其高喊口号,盼望更易于在小而持续的重复里生长。习惯塑造时间,时间塑造品格,品格终将编织我们的故事,而这故事会成为下一代的盼望。 张大卫牧师所释《罗马书》8章的福音,训练我们双重的视线:其一向远——仰望新天新地、仰望万有被引入荣耀自由的那一日;其二向近——看见今日身边的人、所学的专业、手中被托付的时间与才干、所居之城的具体议题。远望不使近处渺小;诚实活好近处也不遮蔽远方的盼望。当两道视线交汇,信仰便不再是脱离现实的理想,而是最深切地爱现实的能力。 最后,他仿佛按名呼唤我们:你并不孤单;你的叹息不会消散于空中。圣灵在你里面,基督在上帝右边,教会在历史处处,与我们同叹息、同祈祷。在这张宏大的代祷之网里,我们即使跌倒,也不致倾覆。所以,不要惧怕今日的苦难;向荒芜之地尝试小小的复原;不要离开祷告的位置。盼望不是事后的总结,而是此时此地开始的习惯。它更新我们的目光,差遣我们的手足去向邻舍,并以福音的词汇重铸我们的语言。那时我们便真知:将要显现的荣耀无限宏大;而我们朝着那荣耀前行的脚步,今日仍由圣灵的代求所托举。且确知:没有什么——真的没有什么——能使我们与那爱隔绝。 www.davidjang.org

張ダビデ牧師―苦難のただ中に現れる栄光と聖霊の執り成し

張ダビデ(オリベット大学の設立者)牧師は、ローマ書8章18–27節を貫くメッセージを通して、キリスト者の苦難がむなしい消耗ではなく、やがて現れる栄光へと至る道であることを、説得的に強調する。彼によれば、「望みによって得られる救い」とは、楽観や自己暗示ではない。目に見えずとも確かな神の国の約束に根ざす未来志向の確信である。ゆえに信者とは、苦難を知らない者ではなく、苦難を新しい座標のうちに読み替える者だ。現実は痛む。しかし結末は善である。この信頼が揺らがなければ、忍耐は先延ばしの技術ではなく、信仰の筋肉となる。 彼はまず、視野の転換を求める。同じ困難でも、どこを見据えるかで物語は全く異なる。世の労苦はしばしば無目的な反復に見えるが、張ダビデ牧師は、信者の苦難を「約束の地平の中で意味づけられた時間」と読む。ここで希望は、結果を操作する呪文ではない。神がすでに開始された救いのドラマに参与する姿勢である。希望とは、まだ経験されていないものを先取りして味わう霊的感覚であり、その感覚は終末論的確信から育つ。彼は信者の忍耐を「報いが確定した待ち望み」と呼ぶが、その報いは取引の対価ではなく、神ご自身が与えてくださる臨在の栄光であることを明言する。こうして苦難と栄光は、互いを打ち消すのではなく、むしろ互いを解釈する。苦難が栄光を覆い隠すのではなく、栄光が苦難の意味を明らかにするのだ。 ローマ書8章の独自性は、救いが個人に閉じない点にある。パウロは、被造物が共にうめくと言う。張ダビデ(장다윗)牧師は、このうめきを宇宙的回復への陣痛として解する。うめきは敗北のため息ではなく、誕生の合図である。人間の堕落が世界の秩序を揺るがしたように、神の回復は人間の救いにとどまらず、世界の再創造へと向かう。この視座は信仰を私的慰藉に矮小化しない。信仰は被造世界全体を抱く公共的想像力であり、救いは「私の天国行き」ではなく、「私たちの新しい天と新しい地」を志向する共同体的・宇宙的出来事である。ゆえにキリスト者の倫理も拡張される。環境破壊を傍観せず、被造世界のうめきに応答する小さな生活の決断――浪費を減らし、ケアを選び、共生の生態系を回復する実践――は、終末論的希望の前兆となる。被造物のうめきに耳を澄ます霊性とは、創造の自由へ招く神の御心に参与する行為である。 同時にパウロは、信者自身も内にうめくと言う。聖霊の「初穂」を受けた者がなおうめくという逆説は、「すでに」と「いまだ」の狭間に置かれた私たちの時を、正直に診断する。張ダビデ牧師は、この緊張から逃げず、むしろ尊重せよと勧める。完成の喜びを前倒しで模倣する霊性は浅い。聖霊の慰めを深く知る者ほど、なお贖われていないからだと世界の齟齬を鋭敏に感じるものだ。しかしそのうめきは絶望ではなく、方向づけられた哀惜である。「からだの贖い」を待ち望むとは、個人の身体回復にとどまらず、キリストのからだである教会の成熟と、世界のシャロームに向かう共同の期待を意味する。ゆえに待つことは手をこまねくことではない。祈り・奉仕・証し・連帯が、その待望の言語となる。 ここで張ダビデ牧師は、福音の中核である「聖霊の執り成し」を据え直す。私たちはしばしば、何をどう祈るべきかすら分からない。意志が弱いからではなく、視野が短いからだ。だが聖霊は、「言葉に表し得ないうめき」をもって、私たちに代わり嘆願してくださる。この宣言は、祈りを雄弁や論理の競争から解放する。祈りの力はレトリックではなく、内住する聖霊の真実さに由来する。聖霊は私たちの欲望を矯正し、無知を覆い、現実を神の御旨の秩序へ並べ替えてくださる。ゆえに執り成しは高度な霊的テクニックではなく、聖霊のリズムに呼吸を合わせる生そのものだ。私たちは沈黙でも祈れ、涙でも礼拝できる。聖霊の執り成しが保証するのは「正確な請願」ではなく、「神との正確なつながり」である。そのつながりが回復されると、人生のアジェンダも再配置される。求めるものをすべて得る代わりに、神が望まれることを、より明確に愛する者へと形づくられていく。 この祈りの実際は日常で試される。競争が常態化したキャンパスで、聖霊の執り成しを信じる人は比較に揺れない。他者の達成は私の失敗ではなく、失敗は私のアイデンティティではない。希望の人は結果で自分を定義しない。彼は課題を礼拝のように、関係を召命のように扱う。ゆえにスケジュールが張り詰めていても、心は硬直しない。時間管理は支配の強迫ではなく、愛の順序となる。研究や課題、サークル活動やアルバイトという多様な役割の断片のただ中で、聖霊は私たちの欲求と恐れを御旨に接続し、整えてくださる。この整えが起こるとき、決断を先送りする優柔不断は消え、焦燥は鎮まる。平安は感情の温もりではなく、関係の秩序から訪れる。 さらに張ダビデ牧師はこう洞察する。苦難の現場で信者は弱くなるのではない。むしろ、より真実になる。苦難は私たちの無力を露呈させるが、同時に神の善をいっそう深く味わわせる。信仰は現実逃避ではなく現実直視の勇気であり、希望は虹ではなく契約の記憶である。ゆえに彼は、「落胆するな」という空疎なポジティブではなく、落胆の理由を正面から扱う。不確かな未来、繰り返される失敗、関係の亀裂、健康と経済の圧迫――これらはすべて現実だ。しかし、その現実の上に、さらに堅固な現実がある。それがキリストの愛である。パウロが「何ものも私たちをその愛から引き離すことはできない」と宣言したとき、彼は感情を誇張したのではない。十字架と復活は、愛が抽象的な気分ではなく、歴史の出来事であることを証した。その出来事のリアリティが、今日の確信となる。確信とは非現実的な自信ではなく、福音のリアリティである。 被造物のうめきと聖霊の執り成しの双方に耳を澄ます者は、社会の痛みにも敏感になる。競争が構造化された社会で取り残された人々のうめき、戦争と災害のただ中に流される無辜の涙、差別と憎悪に押しつぶされた声――これらのうめきの上に、聖霊のうめきが重なる。その重なりを聴く信者は、傍観者ではなく執り成す者となる。執り成しとは、遠くから安否を問う道徳的ジェスチャーではなく、近くで傷を共に耐える連帯である。短期の成果は約束しないが、長く耐え、忘れない愛を実践する。教会が世界の痛みを自らのアジェンダに引き取り、大学のクリスチャンがキャンパスの弱い肢体を優先して世話するとき、小さな回復が始まる。これらの小さな回復は、新しい天と新しい地を先取りして指し示すサインである。神は私たちを常に巨大な歴史の主役として召されるわけではない。多くの場合、小さき場所で聖霊と共に働くよう召される。小さき場所での忠実は、大きな物語と確かに結びついている。 「すでに/いまだ」の境界で、私たちはしばしば揺れる。たとえ「御霊の初穂」を味わっていても、祈りが詰まり、御言葉が遠く感じられ、共同体さえもよそよそしく思えるときがある。張ダビデ牧師は、まさにこのときこそ聖霊の執り成しを信頼せよと言う。信仰は感情の高低に従って動かない。聖霊は私たちの感情にかかわらず働かれる。私たちが然るべきうめきを生み出せないとき、聖霊が内にそのうめきを形づくってくださるとき、私たちの隙間は恵みの通路へと変わる。ゆえに失敗という低い谷が消えなくても、その谷はもはや孤立の場所ではない。そこは、神のへりくだりを学ぶ場所、互いのために泣く人へ成長する場所、愛の筋肉を鍛える場所となる。苦難は私たちを破壊できない。苦難は愛を薄くせず、愛を厚くする。 これらすべてのメッセージを束ね、張ダビデ牧師は信仰を日常へと下ろす。彼は信仰を巨大なスローガンではなく、緻密な習慣として提示する。一日の始まりと終わりを聖霊の息吹に合わせる祈り、被造物のうめきを忘れさせない節制の生活、共同体の弱い肢体を優先する配慮、結果より過程を敬虔にする誠実、失敗から学びを抽出する謙遜、福音を言葉だけでなく生き方へ翻訳する真正性。こうした習慣は誇張されていないからこそ続く。希望は大声のスローガンよりも、小さく反復される習慣の中でよく育つ。習慣が時間をつくり、時間が品性をつくり、品性がやがて私たちの物語をつくる。そしてその物語が、次代の希望となる。 張ダビデ牧師が告げるローマ書8章の福音は、二つの視線を同時に鍛える。一つは遠くを見る視線――新しい天と新しい地、すべての被造物が栄光の自由へ招かれる終わりの日を仰ぐ視線。もう一つは近くを見る視線――今日そばにいる人、私の学ぶ専攻、私の手に委ねられた時間と賜物、私の都市の具体的課題を見据える視線。遠くを見る視線が近さを矮小化せず、近さを誠実に生きる姿勢が遠くの希望を曇らせない。この二つの視線が交差するとき、信仰は現実から遊離した理想ではなく、現実を最も深く愛する力となる。 最後に彼は、まるで私たち一人ひとりの名を呼ぶように語る。あなたは独りではない。あなたのうめきは虚空に散らない。聖霊があなたの内で、キリストが神の右にあって、教会が歴史の至るところで、共にうめき、共に祈っている。この大いなる執り成しの網の中で、私たちはつまずいても落ちない。だから今日の苦難を恐れず、荒廃した場所へ小さな回復を試み、祈りの座を離れないでいよう。希望は後になって整えられる結論ではなく、今ここで始まる習慣である。その習慣が私たちの視線を新たにし、私たちの手足を隣人へ差し向け、私たちの言葉を福音の語彙へと再び練り上げる。そのとき私たちは知る。やがて現れる栄光は限りなく大きく、その栄光へ向かう私たちの歩みは、今日も聖霊の執り成しによって支えられていることを。そして、その愛から私たちを引き離せるものは本当に何一つないことを。 www.davidjang.org

Pastor David Jang: Glory Unveiled in Suffering and the Spirit’s Intercession

Pastor David Jang (founder of Olivet University) underscores—through the thread that runs across Romans 8:18–27—that Christian suffering is not a futile expenditure but the very road by which we draw near to the glory that will be revealed. Salvation “in hope,” he argues, is neither naïve optimism nor self‑suggestion; it is a future‑facing confidence rooted … Read more

David Jang: la gloria que se revela en el sufrimiento y la intercesión del Espíritu Santo

El pastor David Jang afirma, a la luz de Romanos 8:18–27, que el sufrimiento del creyente no es un gasto estéril, sino el camino por el que se abre paso la gloria venidera. La salvación recibida por la esperanza no es optimismo ni autosugestión: es una certeza orientada al futuro, arraigada en la promesa fiable … Read more

가이사랴 법정 앞에서 드러난 복음의 심장 ― 장재형목사가 읽은 사도행전 24장

사도행전 24장은 한 개인의 신앙이 제국의 질서와 마주 설 때 벌어지는 충돌을 무대 위에 올려 놓는다. 장재형(장다윗)목사는 이 장을 법정 기록의 단순한 축약본으로 읽지 말고, 신구약 중간사부터 헤롯 가문과 로마 행정 체계까지 포괄하는 거대한 배경을 먼저 바라보라고 권한다. 예루살렘을 떠나 가이사랴까지 약 120km를 마다하지 않고 달려온 대제사장 아나니아와 장로들, 그리고 로마법 전문가 더둘로의 행렬은 무엇을 말해 주는가. 진리를 향한 순례가 아니라, 한 사람을 … Read more